190.八代城
続100名城基本情報
住所 | 熊本県八代市松江城町7-34 |
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電話 | 0965-33-4533 |
築城年 | 1622年(元和8年) |
営業情報
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
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入場料 | 310円(大人)、200円(高大生) |
休館日 | 月曜日(祝日の場合翌日)、年末年始 |
1. 八代城の概要と地理的特性
八代城(やつしろじょう)は、熊本県八代市(旧 肥後国八代郡)にあった日本の城です。江戸時代初期に球磨川河口の松江に幕府の許可を得て建築されたことから松江城(現八代城趾)とも呼ばれています。八代城は輪郭式の平城で、本丸を中心に、南東に二の丸、南西に三の丸、北西に北の丸、北に出丸が、非対称(渦巻き状)に配置され、それぞれ水堀で区切られています。城の正面は東側(ただし、大手門は南側にあります)で、南の前川と出丸の堀とを結ぶ外堀が東側にだけあり、どんど口(北)、松江口(東)、枡形口(南東)の三つの入口があって、堀と郭の間には整然と区画整備された城下の町並みがありました。築城当時は干拓前で、不知火海の海岸線ももっと近くにあり、一面干潟であった地理的環境に立地しています。
2. 築城の歴史的背景と政治的意義
八代城は、元和5年(1619年)の大地震で麦島城が崩壊したため、熊本城主加藤忠広が幕府の許可を得て、家老の加藤正方に命じ、元和6~8年にかけて球磨川河口北側の松江村に築城した平城です。城は元和8年(1622年)に竣工しました。麦島城時代に認められた一国二城体制は継続されたことは、一国一城令(1615年)の中では全国的にも異例のことでした。熊本藩内に2つの城(熊本城、八代城)の存在が許された理由は、南の大藩・薩摩藩および隣藩・人吉藩への備えとしてというのが通説ですが、島原の乱の舞台となった天草のキリシタン弾圧の備えまたは小西時代に増えた領内のキリシタンへの備えとしてだとか、またこの時期にしばしば現れた異国船への備えとしてだとか、あるいは秀吉恩顧である加藤藩の財政を逼迫させるためだとか、その他に諸説もあります。
3. 城郭構造と築城技術の特徴
松江の天守は加藤正方の渾身の作で、築城時は本丸の北西隅に4層5階の大天守(高さ11メートル)がそびえ、2層3階の小天守(高さ9.7メートル)と渡櫓で連結していました。大天守が早くに無くなったので、江戸時代の『八代城郭絵図』ではすでに四角の区画だけが残る姿で描かれています。本丸の南西隅に二層の月見櫓があり、南東隅の一角は少し張り出した大枡形になっていて、舞台脇櫓・三十間櫓(外様櫓)・宝形櫓が並んでいました。本丸の石垣(の一部)には石灰岩が用いられ、その色から別名「白鷺城(しらさぎじょう)」、「白石城」とも呼ばれました。堀には泳いで渡れないように棘がある鬼蓮が植えられていて、現在もそれは見られます。外郭と併せて、五郭と堀で城を二重に囲むという構造で、海陸の交通の要衝に立地する堅固な城でした。
4. 歴代城主と城郭運営の変遷
寛永9年(1632年)改易となった加藤家の改易により熊本城主となった細川忠利の父忠興(三斎)が入城し、北の丸を居所として本丸に四男の立孝(立允)を居住させました。正保2年(1645)閏5月に立孝が、続いて12月に三斎が没したため、翌3年(1646)家老松井(長岡)興長が入城し、以後は代々松井氏が在城しました。正保3年(1646年)、2代藩主光尚は、島原の乱においても活躍し、将軍徳川家光直臣の身分も持つ筆頭家老松井興長を八代3万石に移封して八代城城主とし、立孝の子・宮松(細川行孝)には宇土郡・益城郡内に3万石を与えて宇土支藩としました。以後明治3年(1870年)の廃城まで松江城(八代城)は代々松井氏が居城としました。松井家は熊本藩の筆頭家老として重要な政治的役割を果たし、八代城の城郭運営においても独自の発展を遂げました。
5. 幕末期の軍事技術革新と歴史的意義
幕末期、城主章之は欧米の火砲の技術に驚き、軍事技術の研究に勤しみ、西洋式の大砲・小銃を導入しました。八代城に大砲164門・小銃1,900を備え、嘉永4年(1851年)には北の丸に兵器廠を設けて武器・弾薬を貯蔵しました。これは江戸時代末期における日本の軍事技術革新の先駆的事例として重要な意義を持っています。明治2年(1869年)の版籍奉還で最後の城主盈之は封土を政府に返還しました。政府は代わり盈之を熊本藩大参事に任じて俸金を与えました。翌年、盈之はこの任を辞して八代城を退去し、熊本に移りました。廃城令後、建物は大書院を除き、全て取り壊されました。八代城は一国一城令の例外として築城された特異な城郭として、近世城郭史研究において重要な地位を占めています。
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