193.臼杵城
続100名城基本情報
住所 | 大分県臼杵市大字臼杵 |
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電話 | 0972-64-7130(臼杵市観光交流プラザ) |
築城年 | 弘治3年(1557年)頃 |
営業情報
開館時間 | 24時間(城跡公園のため) |
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入場料 | 無料 |
休館日 | なし |
1. 臼杵城の概要と立地
臼杵城は、大分県臼杵市に位置する戦国時代から近世にかけての海城です。元々は臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)に築かれており、北・南・東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟でのみ陸地とつながるという天然の要害をなしていました。「丹生」とは丹(鉱物の辰砂)が採取される土地を指し、丹生島とは「金属鉱石の産出する島」という意味があります。現在は埋め立てられて陸続きとなっていますが、往時は四方を海に囲まれた珍しい島城でした。
2. 大友宗麟による築城と拠点移転
通説では永禄5年(1562年)に大友義鎮(宗麟)が毛利氏との戦いに敗れた後、丹生島に新城を築いて府内から移ったとされていますが、実際には弘治3年(1557年)頃には既に拠点を移していたと考えられています。イエズス会宣教師の書簡によると、家臣の反乱(小原鑑元らによる「姓氏対立事件」)を避けるために丹生島に移ったとされており、その後の大友氏関係文書の分析でも義鎮が臼杵で重要な政務を行っていた記録が確認されています。大友宗麟はこの島一つを城郭化して干潟を干拓し、臼杵の湊と城下町が一体化した経済都市を創り出しました。
3. 豊薩戦争と島津軍の攻撃
天正14年(1586年)には島津義弘による豊後侵攻が行われ、豊薩戦争の一環として丹生島城の戦いが勃発しました。この戦いで大友宗麟はポルトガルから輸入した「国崩し」と呼ばれるフランキ砲を使用し、島津家久率いる島津軍を退けることに成功しました。しかし、この戦いにより臼杵城下も大きく損傷を受けました。翌天正15年(1587年)に大友宗麟が病没し、文禄2年(1593年)には文禄・慶長の役における大友義統の敵前逃亡により大友氏が改易処分となりました。
4. 近世城郭への発展と稲葉氏の統治
大友氏改易後、石田三成の妹婿である福原直高が入城し、その後慶長2年(1597年)には太田一吉が入城して城下の復興と近世城郭への大改修を実施しました。慶長5年(1600年)には美濃国郡上八幡から稲葉貞通が5万石で入封し、以降明治維新まで稲葉氏15代が藩主を務めました。稲葉氏時代の臼杵城は3重の天守と31基の櫓を擁する堅固な城郭となり、総二階造りの重箱式天守が特徴的でした。また、稲葉氏は南蛮貿易で蓄積された大友氏時代の文化的基盤を受け継ぎ、城下町の発展に努めました。
5. 現在の臼杵城跡と文化財的価値
明治期の廃城令により建造物の多くは撤去されましたが、現在でも断崖上に建つ畳櫓と卯寅口門脇櫓が現存建物として残っています。また、平成14年(2002年)には二の丸大手門に当たる大門櫓が木造で復元されました。城跡は国の史跡に指定されており、現在は臼杵公園として整備されています。石垣や空堀が良好に保存されており、特に本丸の天守台石垣は16世紀の貴重な遺構として評価されています。平成29年(2017年)には続日本100名城(193番)に選定され、大友宗麟時代の南蛮文化と稲葉氏時代の近世城郭文化が融合した貴重な史跡として多くの見学者が訪れています。
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稲葉氏家紋入り300円
大友氏・稲葉氏家紋入り500円
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