178.能島城
続100名城基本情報
住所 | 愛媛県今治市宮窪町宮窪(能島) |
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電話 | 0897-74-1065(村上海賊ミュージアム) |
築城年 | 14世紀後半 |
営業情報
開館時間 | なし(島への上陸は土日祝のみ要予約) |
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入場料 | 無料(クルーズ船2,500円) |
休館日 | なし |
1. 村上海賊の拠点としての歴史的背景
能島城は瀬戸内海のほぼ中央、伯方島と大島の間の宮窪瀬戸に浮かぶ周囲約1kmの能島に築かれた水軍城で、「日本最大の海賊」と称された三島村上水軍のひとつ、能島村上氏の本拠地として14世紀後半から機能していました。この海域は帆船時代における瀬戸内海航路の最重要地点であり、能島と鵜島が海流を遮る位置関係から干満時には激しい潮流が生じ、渦巻く急流が天然の要害となっていました。能島村上氏は平時には通過する船舶に対して水先案内を行い、帆別銭(通行料)を徴収することで、この海域の制海権を掌握していました。
2. 城郭構造と防御システム
能島城は本丸、二の丸、三の丸、出丸などの6つの曲輪と船だまり、さらに南の鯛崎島と呼ばれる属島から構成される中世水軍城として大規模な構造を持っていました。土塁や空堀を持たない特異な城郭でしたが、最大10ノット(時速約18km)の激しい潮流が水堀の役割を果たし、潮流の動きを熟知しなければ島に近寄ることすらできない天然の防御システムを構築していました。曲輪内は平坦に削平され、100~200人ほどの兵が駐屯できる広さがあり、三の丸では約40cmの礎石や鍛冶屋跡が確認され、城内で武器や道具の修理を自給自足で行っていた様子が窺えます。
3. 岩礁ピットと建造技術
能島城の最大の特徴は、島の岩場に穿たれた400を超える柱穴「岩礁ピット」です。これらは桟橋や護岸用の杭列、船を繋留する柱などの痕跡とされ、島全体を船着き場として機能させていた証拠となっています。特に直径1m、深さ2mにもなる大穴が2箇所発見されており、その用途について現在も研究が進められています。平成の発掘調査により、城内では井楼などの物見櫓や住居跡など18棟の建物跡が確認され、調理用具などの生活土器も多数出土したことから、水軍が実際に城内で日常生活を営んでいたことが明らかになりました。
4. 戦国時代の軍事的役割と合戦
永禄13年(1570年)、北部九州をめぐる毛利氏と大友氏の対立において、能島村上氏は毛利氏包囲網に加わり、元亀2年(1571年)には毛利軍による能島城合戦が勃発しました。毛利軍は能島村上氏の家臣・嶋吉利の守る本太城や務司城を攻略した後、能島城を直接攻撃しましたが、援軍として駆けつけた小早川軍・因島村上軍・来島村上軍によって反撃を受ける激戦となりました。この戦いは大友氏の斡旋により和睦が成立しましたが、瀬戸内海の制海権をめぐる重要な拠点として能島城の戦略的価値の高さを示す出来事でした。
5. 豊臣政権下での終焉と史跡指定
天正16年(1588年)、豊臣秀吉が発した海賊停止令(海賊鎮圧令)により村上海賊の時代は終焉を迎え、能島城は廃城となりました。江戸時代以降は無人島となったため、城塞遺構は良好に保存され、昭和28年(1953年)に「能島城跡」として国史跡に指定されました。昭和48年(1973年)には愛媛県教育委員会が「能島水軍の里」を設置し、その後も継続的な文化財調査が実施されています。平成29年(2017年)には続日本100名城(178番)に選定され、現在は土日祝日限定で能島上陸&潮流クルーズが運行され、日本唯一の海城遺跡として多くの研究者や観光客に注目されています。
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