198.知覧城
続100名城基本情報
住所 | 鹿児島県南九州市知覧町永里 |
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電話 | 0993-83-4433(ミュージアム知覧) |
築城年 | 平安時代末期(12世紀後期) |
営業情報
開館時間 | ミュージアム知覧:9:00-17:00(入館16:30まで) |
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入場料 | ミュージアム知覧:大人300円、小中高生150円 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始 |
1. 知覧城の築城と初期の歴史
知覧城は平安時代末期の頃に郡司・知覧忠信によって築かれたと伝えられています。室町時代の文和2年(1353年)には足利尊氏の下文によって島津忠宗の三男・佐多忠光がこの地の領主となり、以後佐多氏の居城として知られるようになりました。その後、島津氏の内訌に伴い一時伊集院頼久一族の配下となりましたが、応永27年(1420年)に島津久豊が伊集院一族からこの城を取り返し、再び佐多氏の居城となりました。文禄検地等で多少の異動はあったものの、佐多氏は幕末まで知覧領主として継続しました。
2. 城郭構造と築城技術
知覧城は標高170メートルのシラス台地に築かれ、切り立ったシラス崖によって本丸・蔵之城・今城・弓場城の4つの独立した曲輪に画されています。各曲輪は約40メートルの切り立った崖によって守られており、シラス台地の地質的特性を最大限に活用した南九州特有の築城技術の典型例です。本丸は南方に虎口を持つ南北70メートル、東西70メートルの曲輪で四周に土塁が築かれています。各曲輪には桝形虎口が残されており、織豊城郭の影響を受けた築城技術の変遷を示しています。
3. 発掘調査と学術的成果
知覧城では過去に複数回の発掘調査が実施され、中世城郭の構造や変遷が明らかになりました。発掘調査により各曲輪の規模や構造、出土遺物の分析から当時の生活様式や年代観が解明されています。特にシラス台地を削って造られた桝形虎口や空堀の構造は、南九州型城郭の築城技術を理解する上で重要な資料となっています。また、城内から出土した陶磁器類や金属製品は、中世後期の物質文化や交易関係を示す貴重な考古学的資料として評価されています。
4. 廃城と外城制への移行
慶長5年(1600年)頃、11代当主・佐多久達の時代に知覧城は原因不明の出火で炎上し、一国一城令発令前に実質上廃城となりました。しかし佐多氏は江戸時代に入ってからも知覧を治め続け、薩摩藩独特の領国統治システムである「外城制」の下で知覧麓(ふもと)と呼ばれる武家集落を形成しました。この外城制により知覧は113の外城の一つとして政治や経済の中心となり、武士を配置させて地方行政・防衛を行う重要な拠点となりました。現在の知覧武家屋敷群はこの時代の遺産です。
5. 歴史的評価
学術的には南九州を代表する中世城郭として位置づけられ、シラス台地という特殊な地形を活用した築城技術、4つの独立した曲輪から構成される独特な縄張り、長期間にわたる佐多氏の統治などが、中世九州の城郭史・政治史研究において重要な事例として高く評価されています。現在も継続的な保存整備が行われており、南九州型城郭の代表例として学術的価値を保持しています。
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