171.備中高松城
続100名城基本情報
住所 | 〒701-1354 岡山県岡山市北区高松558-2 |
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電話 | 086-287-5554(備中高松城址資料館) |
築城年 | 永禄元年(1570)頃 |
営業情報
開館時間 | 10:00~15:00(資料館) |
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入場料 | 無料 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は開館)・年末年始 |
1. 歴史と築城の背景
備中高松城は永禄元年(1570年)頃に、備中一円を治めていた戦国大名三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた梯郭式平城です。城は低湿地帯に位置し、周囲の沼地が天然の堀を形成していました。天正3年(1575年)の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となり毛利氏の境目7城の一つとして重要な役割を担いました。
2. 備中高松城の戦いと水攻め
天正10年(1582年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は中国攻めの先鋒として4月に高松城攻めを開始しました。城の周囲が沼地に囲まれ難攻不落とされていたため、攻城戦は持久戦となりました。5月8日、黒田孝高の献策により城を堰堤で囲む土木工事が開始され、世に言う「高松城水攻め」が実行されました。人夫に過分な金子を与えた突貫工事で11日後に堤防が完成し、梅雨時の豪雨で城は水没しました。
3. 清水宗治の忠義と自刃
秀吉は攻城に先立って清水宗治に備中・備後二か国を与えることを条件として味方になるよう交渉しましたが、宗治はこの誘いを断り毛利氏に忠義を尽くしました。和議が成立し、城兵5,000名の命と引き換えに宗治は自刃を決意、舟の上で切腹しました。この間に本能寺の変の報が届き、秀吉は明智光秀討伐のため「中国大返し」を行うことになり、この戦いは秀吉天下統一のターニングポイントとなりました。
4. 続100名城認定と現在の整備
平成29年(2017年)に続日本100名城(171番)に選定され、現在は高松城址公園として歴史公園に整備されています。続日本100名城スタンプは備中高松城址資料館に設置され(休館日は清鏡庵に設置)、令和5年(2023年)6月にリニューアルされた資料館では水攻めの資料やVRコンテンツが展示されています。周辺には水攻築堤跡「蛙ヶ鼻」や「太閤腰掛岩」など関連史跡も残っています。
5. 宗治蓮と御城印
公園内の本丸跡には清水宗治の首塚があり、7,000平方メートルの広大な堀には毎年7月中旬になると「宗治蓮」が約4,000平方メートルにわたって咲く壮観な光景が見られます。400年前の種が自然と開花したとされる蓮は、水に守られ水に散った城主宗治を偲ばせます。御城印は備中高松城址資料館で通年版(清水宗治と辞世の句をデザイン)と季節版(四季の花をモチーフ)がそれぞれ300円で販売されています。
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関連リンク
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御城印情報

季節版300円
スタンプ情報

清鏡庵(休館日のみ)