188.原城
続100名城基本情報
住所 | 長崎県南島原市南有馬町乙 |
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電話 | 0957-85-3217(有馬キリシタン遺産記念館) |
築城年 | 1496年(明応5年) |
営業情報
開館時間 | 見学自由(屋外史跡) 有馬キリシタン遺産記念館9:00~18:00 |
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入場料 | 無料(城跡) 有馬キリシタン遺産記念館300円 |
休館日 | なし(城跡) 有馬キリシタン遺産記念館毎週木曜日・12月29日~1月3日 |
1. 原城の概要と地理的特性
原城は長崎県南島原市南有馬町に位置する中世末期から近世初期の城郭で、島原半島南部の有明海に張り出した丘陵に築かれています。別名を春城、志自岐原城、日暮城、有馬城とも称し、三方を海に囲まれた標高約30メートルの天然の要害を利用した海城です。南北約1.3キロメートル、東西約0.5キロメートルの城域は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、鳩山出丸などから構成され、東側は海、それ以外は低湿地で囲まれた堅固な防御拠点として機能していました。現在は国の史跡および世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産として保護されています。
2. 築城の歴史と有馬氏の統治
原城は明応5年(1496年)に有馬貴純によって日野江城の支城として築城されました。16世紀末期には文禄・慶長の役で朝鮮半島の倭城や肥前名護屋城の知識を得た有馬晴信によって近世城郭として大幅に改修され、瓦葺きの屋根を持った織豊系城郭として生まれ変わりました。慶長9年(1604年)の主要部竣工時には、原城はキリスト教による祝別を受けており、キリシタン大名有馬氏の居城として独特の宗教的意義を持つ城郭でした。しかし慶長17年(1612年)に有馬晴信が岡本大八事件に連座して失脚し、元和2年(1616年)に松倉重政が入封すると一国一城令により廃城となりました。
3. 城郭構造と築城技術
原城は中世から近世への城郭建築の過渡期を示す重要な事例で、本丸は総石垣造りの近世的特徴を持つ一方、二ノ丸や三ノ丸は土造りの構造で中世の名残りを留めています。本丸大手門跡からは2004年の調査で8個の巨大礎石が発見され、当時最先端の近畿地方の築城技術が用いられていたことが判明しました。虎口の種類としては平入りや枡形が存在し、石英斑岩を用いた石垣は戦国時代の石積技術を示す貴重な遺構となっています。城内には慶長年間の金箔瓦も出土しており、有馬氏の権威と財力を物語る豪華な建築物が存在していたことが推測されます。
4. 島原・天草一揆と籠城戦
寛永14年(1637年)から翌年にかけて発生した島原・天草一揆では、廃城となっていた原城が一揆勢の最後の拠点となりました。天草四郎を総大将とする約3万7千人の一揆軍が88日間立て籠もり、約12万人の幕府軍と激戦を繰り広げました。一揆勢は本丸大手前に空堀を掘り、蓮池とともに本丸を「島」のようにして籠城し、新たに堀や土塁を設けて防御を強化しました。本丸の最奥部には「四郎家」と呼ばれる天草四郎の居館があったとされ、絵図や書状にその記録が残されています。一揆の終結後、幕府は原城跡の徹底的な破却を行い、残存する石塁や建築物を破壊しました。
5. 考古学的発見と世界遺産登録
原城跡では長期にわたる発掘調査により、島原・天草一揆の実態を物語る貴重な遺物が多数出土しています。惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、十字架、メダイ、ロザリオ珠などのキリスト教関連遺物、さらに万人坑も発見され、一揆の悲惨な結末を物理的に証明する史料となっています。1938年に国の史跡に指定された原城跡は、2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産として世界文化遺産に登録されました。これは島原・天草一揆が日本の海禁体制確立に与えた歴史的影響と、その後の潜伏キリシタンの形成過程における重要性が国際的に認められたことを示しています。
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