166.宇陀松山城

1. 宇陀松山城の概要と歴史
宇陀松山城は奈良県宇陀市にある標高473mの古城山に築かれた山城です。14世紀半ばの南北朝時代に宇陀三将の一人である秋山氏が築いた「秋山城」を起源としています。東国と西国を結ぶ要衝の地に位置し、当初は秋山氏の本拠地として機能しました。天正13年(1585年)に豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏が退去すると、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らの居城となりました。大和郡山城・高取城とともに豊臣政権下の大和国支配の要として大規模な改修が行われ、近世城郭へと変貌を遂げました。
2. 城の構造と発掘成果
宇陀松山城は平成7年(1995年)からの発掘調査により、本丸や周辺が総石垣で構築されていたことが明らかになりました。天守郭、本丸、帯曲輪が階層状に配置された求心性の高い縄張りを持ち、近世城郭的特徴を色濃く残しています。発掘調査では本丸御殿の礎石列や天守郭の石垣が確認され、多賀氏の家紋入り鬼瓦の出土から多賀秀種時代の大規模改修が推定されています。複雑な桝形虎口が連続する防御システムや、本丸を囲む多門櫓の存在も判明し、堅固な山城であったことが実証されています。
3. 歴代城主と城の変遷
築城者秋山氏の後、豊臣政権期には加藤光泰(1万石)、多賀秀種(3万石)が8年間在城し、関ヶ原の戦い後は織田信雄の子高長が入封しました。慶長19年(1614年)には福島正則の弟・高晴が入城し「松山城」と改名されました。元和元年(1615年)の大坂夏の陣で福島高晴が豊臣方への内通を疑われ改易されると、小堀遠州により城郭は破却されました。その後は織田氏による陣屋支配が続き、城下町は「松山千軒」と称されるほど繁栄を続けました。
4. 現在の状況と見学情報
宇陀松山城跡は平成18年(2006年)に国史跡に指定され、2017年に続日本100名城166番に選定されました。春日神社からのルートとまちかどラボ裏からの赤砂利ルートの2つの登城道が整備されており、いずれも徒歩15分程度で山頂に到達できます。
天守郭からは南に吉野・大峰の山々、北に大和富士(額井岳)を一望でき、「大峰山脈が眺望できる宇陀松山城跡」として奈良県景観資産に登録されています。本丸跡と虎口跡の石垣が部分的に残存し、往時の威容を偲ばせています。
5. 続100名城スタンプと御城印
続日本100名城スタンプは宇陀市松山地区まちかどラボに設置されています。同施設では宇陀松山城の資料展示も行っており、城跡見学前の情報収集に最適です。道の駅宇陀路大宇陀にもスタンプが設置されています。
御城印は宇陀松山城版と秋山城版の2種類が300円で販売されています。史跡指定18周年記念版や白抜きデザイン版など限定版も定期的に販売され、コレクターに人気を集めています。宇陀三城(秋山城・澤城・芳野城)の御城印セットも販売されています。
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