30.高遠城
日本100名城
1. 高遠城の概要と歴史的価値
高遠城は長野県伊那市高遠町に位置する平山城で、三峰川と藤沢川の合流点にある河岸段丘上に築かれています。戦国時代の武田信玄による大改修を経て南信濃支配の重要拠点となり、織田軍との最後の激戦地として知られています。現在は高遠城址公園として整備され、約1,500本のタカトオコヒガンザクラが咲く「天下第一の桜」の名所として全国的に有名です。国の史跡指定を受け、日本100名城にも選定されています。
2. 築城の経緯と武田氏による改修
高遠城の築城年代は明確ではありませんが、14世紀頃に諏訪氏から分かれた高遠氏が居城としていたと考えられています。天文14年(1545年)に武田信玄が高遠氏を滅ぼして城を奪取し、天文16年(1547年)に軍師・山本勘助と譜代家老・秋山虎繁に命じて大規模な改修を行いました。この改修により、高遠城は武田流築城術の粋を集めた堅固な要塞として生まれ変わりました。
3. 城郭の構造と縄張り
高遠城は河岸段丘の地形を巧みに利用した平山城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、勘助曲輪、南曲輪、法幢院曲輪などが配置されています。三方を川に囲まれた天然の要害で、東側のみを人工的な防御施設で固めることで攻撃を困難にしていました。現在も残る深い空堀や高い土塁は戦国時代の築城技術を物語る貴重な遺構となっています。
4. 織田軍との最後の決戦
天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐では、高遠城が武田氏最後の抵抗拠点となりました。城主・仁科五郎盛信は織田信忠率いる3万の大軍に対し、わずか3千の兵で徹底抗戦を行いました。降伏勧告を断固拒否した盛信は討死し、高遠城は落城しましたが、その勇戦ぶりは敵軍からも称賛されました。この戦いで武田氏は事実上滅亡への道をたどることになります。
5. 江戸時代の高遠藩
江戸時代には高遠藩3万3千石の居城として重要な役割を果たしました。元和3年(1617年)に保科正光が入城し、その子・保科正之(のちの会津松平家祖)も一時期この城で過ごしました。その後、鳥居氏、内藤氏と藩主が変遷し、城郭も近世城郭として整備されました。石垣や櫓門、御殿などが建設され、城下町も発展を遂げました。
6. 桜の名所としての発展
明治8年(1875年)に高遠城跡は公園として整備され、翌年から桜の植樹が始まりました。高遠藩の旧藩士たちが城下の「桜の馬場」から桜を移植したのが現在の桜林の起源です。タカトオコヒガンザクラという固有種約1,500本が植えられ、満開時には公園全体が薄紅色に染まる絶景となります。「天下第一の桜」と称され、日本三大桜の名所に数えられています。
7. 現存する遺構と見どころ
高遠城址公園には戦国時代から江戸時代にかけての遺構が良好に保存されています。特に本丸周辺の深い空堀や高い土塁は見応えがあり、武田流築城術の特徴をよく示しています。桜雲橋や問屋門などの江戸時代の建造物も移築復元され、往時の城郭の雰囲気を感じることができます。勘助曲輪の名前は山本勘助にちなんで名付けられました。
8. 高遠そばと城下町文化
高遠は独特の「高遠そば」で知られ、焼き味噌と辛味大根で食べる伝統的な蕎麦文化が残っています。城下町として発達した町並みには歴史ある建物が点在し、高遠町歴史博物館では城の歴史や文化財を詳しく学ぶことができます。絵島囲み屋敷跡など江戸時代の史跡も多く、歴史散策の楽しみが豊富です。
9. アクセスと観光情報
高遠城址公園は中央自動車道伊那ICから国道361号経由で約30分、JR飯田線伊那市駅からバスで約25分です。桜祭り期間中は臨時駐車場が設置され、シャトルバスも運行されます。通常は入園無料ですが、桜祭り期間中は有料となります。高遠町歴史博物館では城の詳しい歴史を学べ、日本100名城スタンプも24時間取得可能です。
10. 高遠城と日本100名城
高遠城は平成18年(2006年)に日本100名城の30番に選定されました。武田氏の築城技術、織田軍との決戦の舞台、桜の名所としての価値が評価されています。スタンプは高遠町歴史博物館正面玄関に屋外設置されており、24時間365日押印可能です。御城印は通常版から季節限定版まで多種類が販売され、城郭ファンのコレクションアイテムとして人気を集めています。信州の歴史と自然美を同時に楽しめる名城として、年間を通じて多くの観光客が訪れています。
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