146.諏訪原城
続100名城基本情報
住所 | 〒428-0037 静岡県島田市菊川1174番地 |
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電話 | 0547-36-7967 |
築城年 | 天正元年(1573年) |
営業情報
開館時間 | 常時開放 |
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入場料 | 無料 |
休館日 | なし |
1. 築城の経緯と戦略的重要性
諏訪原城は天正元年(1573年)、武田勝頼が遠江侵攻の拠点として牧之原台地の北端部、標高212~220mの台地に築城した山城です。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされ、駿遠の国境という戦略的要衝に位置していました。
築城を担当したのは武田氏の重臣・馬場信春で、本曲輪東側は断崖絶壁、当時の大井川が牧之原台地に沿って流れていたことから、自然地形によって守られた「後ろ堅固の城」として設計されました。掛川から小夜の中山・菊川宿を経て東海道沿いに位置し、台地の突端部を利用して戦闘正面を限定させる甲州流の築城法が採用されています。
2. 武田氏から徳川氏への攻防と変遷
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで武田軍が織田徳川連合軍に大敗すると、徳川家康は直ちに反攻に転じました。同年7月中旬頃から諏訪原城は徳川軍により包囲され、8月には開城して徳川氏の支配下となります。
徳川家康は諏訪原城を「牧野城」と改名しました。これは地名の「牧野原」から取ったという説と、中国古代の故事「牧野の戦い」になぞらえたという説があります。今川氏真、松平家忠、牧野康成らが城主を務めましたが、武田氏滅亡後の天正18年(1590年)頃、徳川家康の関東転封とともに廃城となりました。
3. 築城技術の変遷と考古学的発見
平成21年(2009年)から27年(2015年)にかけて実施された発掘調査により、重要な事実が判明しました。従来「甲州流築城術の典型」とされた諏訪原城でしたが、武田氏時代に構築されたのは本丸と南端の小型丸馬出のみで、二の丸や大型の丸馬出は徳川氏による改修であることが明らかになったのです。
この発見は「丸馬出=武田氏の築城技術」という従来の固定観念を覆し、これまで低く評価されがちだった徳川氏の築城技術を再評価する契機となりました。現在も三日月堀と馬出がセットになった丸馬出や横堀が良好に残存し、武田・徳川両氏の築城技術の変遷を物語る貴重な史跡として国の史跡に指定されています。
4. 現代の保存活用と文化観光
昭和50年(1975年)の国史跡指定、平成29年(2017年)の続日本100名城選定を経て、平成31年(2019年)には諏訪原城ビジターセンターがオープンしました。
特筆すべきは令和2年に結成された「諏訪原城応援隊」の活動です。日本テレビ「笑点」司会者の春風亭昇太師匠を隊長とし、公益財団法人日本城郭協会理事の加藤理文氏らが参画して全国的なPR活動を展開しています。現地では応援隊による音声ガイドサービスも提供され、戦国時代の築城技術を現代に伝える教育拠点として機能しています。
5. 山城としての魅力と景観美
諏訪原城の魅力は、なんといっても圧倒的なスケールの土木工事にあります。東へ突き出した台地の東端に主郭を配し、西側に二の郭、さらに外郭を構える「後堅固」の縄張りは、武田氏が好んだ築城思想を体現しています。
訪問者の平均滞在時間は58分、評価点は3.72点と高く、特に大規模で深い空堀と内堀の迫力は圧巻です。良好に整備された見学路により、戦国時代の山城の特徴を存分に体感できる貴重な史跡として、多くの歴史愛好家に愛され続けています。
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スタンプ情報

諏訪原城跡大手南外堀パンフレットスタンド横鉄庫内(ビジターセンター閉館時)