195.延岡城
続100名城基本情報
住所 | 宮崎県延岡市本小路 |
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電話 | 0982-22-7029(延岡城跡城山公園管理事務所) |
築城年 | 慶長8年(1603年) |
営業情報
開館時間 | 24時間(城跡公園のため) |
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入場料 | 無料 |
休館日 | なし |
1. 延岡城の概要と立地
延岡城は、宮崎県延岡市本小路に位置する江戸時代初期の平山城です。五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた標高約50メートルの独立丘陵に築かれており、元々は縣城(あがたじょう)と呼ばれていました。別名に亀井城という名称もあります。現在は城山公園として整備されており、宮崎県を代表する近世城郭として知られています。本丸を中心に段下がりに二の丸・三の丸を張り出すように縄張りされており、五ヶ瀬川と大瀬川を外堀として利用した天然の要害を形成していました。
2. 高橋元種による築城と初期の発展
延岡城の築城は、豊臣秀吉の九州平定において軍功のあった高橋元種によって行われました。天正15年(1587年)に豊前国香春岳から延岡5万3千石で転封された高橋元種は、慶長6年(1601年)から築城を開始し、慶長8年(1603年)に完成させました。この地は古代以降土持氏が約700年にわたって支配していた縣(あがた)と呼ばれる地域で、高橋元種は既存の土持氏の城館を改修増築した可能性も考えられています。築城当初は縣城と呼ばれていましたが、後に延岡城へ改称されました。
3. 有馬氏による城郭整備と城下町の発展
慶長18年(1613年)に高橋元種が罪人をかくまった罪で改易された後、有馬康純が日向府内から延岡に移封されました。有馬氏は三代70年間にわたって延岡を治め、この期間に今日の延岡城下町の原型が完成されました。普請本〆は有馬長兵衛と坂部彦兵衛、普請奉行は久能善右衛門、大工棟梁は中井太兵衛(後に主税と改名)が担当し、城郭の大規模な改修と整備が行われました。特に承応元年(1652年)には縣城の修復工事が実施され、石垣技術の向上とともに城郭の防御力が強化されました。
4. 内藤氏の入封と明治維新まで
有馬氏の後、三浦氏・牧野氏と藩主が変わりましたが、延享4年(1747年)に内藤政樹が磐城平(現在の福島県いわき市)から7万石で入封し、以降明治維新まで内藤氏8代が延岡藩主を務めました。内藤氏時代の延岡城は平和な時代の居城として機能し、城郭の軍事的側面よりも政治・文化の中心としての役割が重要視されました。最後の藩主内藤政挙は「延岡中興の父」と称され、明治時代には延岡の近代化の基礎を築いた人物として評価されています。
5. 現在の延岡城跡と文化財的価値
現在の延岡城跡は城山公園として整備されており、最大の見どころは高さ19メートルの「千人殺しの石垣」です。この石垣は礎石を外すと石垣全体が崩れ落ちて千人の敵を殺すことができるという伝説から名付けられ、熊本城宇土櫓台、小倉城天守台に次ぐ九州屈指の規模を誇ります。野面積みでありながら割石技術、算木積、反りの技法を用いた高度な石垣技術を示しており、慶長年間初期の築城技術を物語る貴重な遺構です。また、復元された北大手門や天守台跡の鐘つき堂も見どころとなっています。
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