145.興国寺城
続100名城基本情報
住所 | 〒410-0309 静岡県沼津市根古屋 |
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電話 | 055-935-5010(沼津市教育委員会文化振興課) |
築城年 | 長享2年(1488年)頃 |
営業情報
開館時間 | 終日見学可 |
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入場料 | 無料 |
休館日 | なし |
1. 興国寺城の歴史と概要
興国寺城は長享2年(1488年)頃に、室町幕府官僚であり今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が、今川氏の家督争いを収めた功により富士郡下方12郷を与えられて築城したとされる平山城です。静岡県沼津市根古屋の愛鷹山南麓、標高約30mの篠山という尾根上に位置し、駿河・甲斐・伊豆の境界にあたる戦略的要衝に築かれました。早雲は明応2年(1493年)に伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を討って伊豆国を平定し、韮山城に本拠を移した後も興国寺城は重要な拠点として機能し、慶長12年(1607年)に天野康景の出奔により廃城となるまで約120年間にわたって歴史の舞台となりました。
2. 戦国時代の始まりを告げた城
興国寺城は「戦国時代の始まりの城」として極めて重要な歴史的意義を持っています。北条早雲がここを拠点として戦国大名への第一歩を踏み出し、後に関東一円を支配する後北条氏の基礎を築いたことから、戦国時代の幕開けを象徴する城とされています。早雲は興国寺城から伊豆侵攻を開始し、その後相模小田原城を奪取して戦国大名としての地位を確立しました。興国寺城はその後も今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏と支配者が次々と変わり、まさに戦国時代の勢力争いの縮図を体現した城として、各勢力による激しい攻防戦が繰り広げられた歴史を物語っています。
3. 地形を活かした縄張りと防御構造
興国寺城は愛鷹山南麓の舌状台地を堀切で分断し、尾根先端を独立させて築かれた典型的な平山城で、三方を湿地帯の浮島沼に囲まれた天然の要害を巧みに利用しています。城郭は北から順に北曲輪、本丸、二の丸、三の丸が一直線に配置され、東側には谷を挟んで清水曲輪が設けられた連郭式の縄張りとなっています。城域面積は約113,000平方メートルに及ぶ静岡県東部を代表する山城で、根方街道と竹田道が交差する交通の要衝に位置し、東海道や根方街道を監視する戦略的立地を活かした構造となっています。1mも掘削すれば水が湧き出るほどの湿地帯という地形的特徴も、城の防御力を高める重要な要素となっていました。
4. 巨大な土塁と大空堀の見どころ
現在の興国寺城跡最大の見どころは、本丸を囲む高さ5mを超える巨大な土塁と、本丸と北曲輪の間にある幅20m以上、深さ8~10mに及ぶ大空堀(堀切)です。この大空堀は豊臣時代に築かれたとされ、掘削した土で天守台を築いたという規模の大きな土木工事の痕跡を今に伝えています。本丸背後の天守台には2棟の礎石建物跡が発見されており、瓦が出土していないことから一般的な天守閣ではなく、象徴的な建物があったと考えられています。天守台からは原の市街地と駿河湾、伊豆半島を一望でき、晴天時には富士山も望める絶景ポイントとなっており、当時の監視機能を実感できます。
5. 現代的価値と整備活用
興国寺城跡は平成7年(1995年)に国史跡に指定され、平成29年(2017年)には続日本100名城に選定されて全国的な注目を集めています。現在も沼津市による発掘調査が継続的に実施されており、120年間にわたる興国寺城の歴史が徐々に明らかになっています。城跡内の穂見神社境内には続日本100名城のスタンプが設置され、北条早雲碑も建立されて歴史学習の場として活用されています。御城印は沼津四大城プロジェクトの一環として県立沼津西高等学校書道専攻生徒による揮毫で制作され、野﨑園などの地元商店で販売されており、地域一体となった文化観光振興の取り組みが展開されています。将来的には史跡公園としての整備も検討されており、戦国時代の始まりを告げた歴史的拠点として後世に伝承される重要な文化遺産となっています。