122.大多喜城
続100名城基本情報
住所 | 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 |
---|---|
電話 | 0470-82-3007(千葉県立中央博物館大多喜城分館) |
築城年 | 大永元年(1521年)・天正18年(1590年)大改修 |
営業情報
開館時間 | 分館休館中・城跡は随時見学可能 |
---|---|
入場料 | 城跡無料(分館は休館中) |
休館日 | 分館休館中(施設改修のため) |
1. 大多喜城の歴史と真里谷信清
大多喜城は千葉県夷隅郡大多喜町にあった平山城で、大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのが始まりとされています。16世紀前半には武田信清が城主となり、その後は里見氏の家臣正木時茂が天文14年(1545年)に奪取し、正木氏が居城としました。中世の大多喜城の詳細な場所は特定されていませんが、現在の城の地下に大規模な城の遺構が発見されており、裏山の栗山なども城域の一部として使用されていたと考えられています。
2. 本多忠勝による近世城郭への大改修
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの後、徳川家康の関東移封に伴い、徳川四天王の一人である本多忠勝が10万石で大多喜の地を拝領しました。忠勝は中世の小田喜城を大規模に改修し、近世城郭として生まれ変わらせました。夷隅川を天然の堀として活用し、丘陵部に各曲輪を配置し、防備の手薄な麓には水堀を築いて城を囲む堅固な構造としました。この時期に「大多喜城」の名称となり、大多喜藩の藩庁が置かれました。
3. 城郭構造と建築遺構
大多喜城は夷隅川北側の段丘地に築かれ、本丸・二の丸・三の丸などの曲輪と水堀・空堀・土塁による防御システムで構成されていました。慶長14年(1609年)にスペインのドン・ロドリゴが訪れた際の記録では、火縄銃を持った武士が100人も警備にあたる壮麗な城として描かれています。現在残る建築遺構としては、大多喜高校敷地内に移築された薬医門(千葉県指定有形文化財)と、周囲17メートル・深さ20メートルの「底知らずの井戸」と呼ばれる大井戸があります。
4. 江戸時代の変遷と荒廃
慶長6年(1601年)に忠勝が桑名城に移った後は、次男の本多忠朝が城主となりましたが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で戦死しました。その後、元和5年(1619年)に阿部正次が拠点を移したことで大多喜藩は一時廃藩となり、城は荒廃しました。寛文11年(1672年)に阿部正春が入城した際、幕府から再建命令が下されましたが、規模縮小により十分な整備は行われませんでした。元禄3年(1690年)からは松平氏が城主となり、明治4年(1871年)の廃藩置県まで城を維持しました。
5. 現在の状況と見学施設
現在の大多喜城跡には昭和50年(1975年)に建設された3層4階の模擬天守(千葉県立中央博物館大多喜城分館)がありましたが、施設改修のため2021年12月から休館中です。敷地内への立ち入りは可能で、隣接する研修館で展示が行われています。続日本100名城のスタンプは休館中のため大多喜駅前の観光本陣に設置されており、いすみ鉄道大多喜駅から徒歩15分でアクセスできます。城跡周辺には大多喜水道跡や堀切遺構なども残されており、本多忠勝ゆかりの良玄寺や妙福寺も見学できます。
アクセスマップ
関連リンク
散歩記録

御城印情報

旧称大多喜駅前観光案内所
スタンプ情報
