105.白石城
続100名城基本情報
住所 | 宮城県白石市益岡町1-16 |
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電話 | 0224-24-3030(白石城歴史探訪ミュージアム) |
築城年 | 天正年間(1573〜1592年) |
営業情報
開館時間 | 9:00〜17:00(4〜10月 9:00〜16:00(11〜3月) |
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入場料 | 大人400円、小人200円 |
休館日 | 12月28日〜31日 |
1. 白石城の概要と歴史的地位
白石城(しろいしじょう)は、宮城県白石市益岡町にあった天正年間(1573〜1592年)築城の平山城で、別名を益岡城・桝岡城とも呼びます。伊達政宗の重臣である片倉小十郎景綱の居城として特に有名で、江戸時代には仙台藩の重要な支城として機能しました。白石盆地の独立丘陵地北端、標高76メートルの地点に築かれた総面積約6ヘクタールの城郭で、1995年(平成7年)に木造復元された三階櫓は戦後復元天守として日本最大級の規模を誇り、2017年には続日本100名城(105番)に選定されました。
2. 築城の背景と城主の変遷
白石城の地には古くから刈田左兵衛尉経元が築城したとされる城があり、その後白石氏などが支配していました。戦国時代末期の1591年(天正19年)、豊臣秀吉の奥州仕置により刈田郡は会津の蒲生氏郷の領地となり、家臣の蒲生郷成が入城して近世城郭への改造を行いました。1598年(慶長3年)には上杉景勝の家臣・甘糟景継が城主となりましたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに際して伊達政宗が白石城を攻略し、再び伊達領となりました。
3. 片倉氏の居城としての発展
1602年(慶長7年)12月、伊達政宗の側近である片倉小十郎景綱が亘理から白石城に移り、1万8000石を領して以降、明治時代まで約260年間片倉氏が城主を務めました。1615年(元和2年)に江戸幕府が一国一城令を発布した際、九州の八代城などと並んで特例として存続が認められた数少ない城の一つです。この間、『片倉代々記』には主要な修繕だけでも約30回の記録が残されており、片倉氏による丁寧な城郭管理が行われていたことが分かります。
4. 戊辰戦争と白石列藩会議
1868年(慶應4年)の戊辰戦争では、白石城が奥羽諸藩の政治的拠点として重要な役割を果たしました。奥羽諸藩の代表たちが白石城において白石列藩会議を開き、これが奥羽越列藩同盟の結成につながりました。白石城には公議府が置かれ、北白川宮能久親王も滞在しましたが、仙台藩の新政府軍への降伏により白石城も明け渡されました。その後、元盛岡藩主の南部利恭による白石藩が成立しましたが短命に終わり、1874年(明治7年)に城は取り壊されました。
5. 現在の保存状況と木造復元
城の取り壊しから約25年後の1900年(明治33年)、城跡は益岡公園として整備されました。転機となったのは1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の放送で、片倉景綱への注目により白石城復元の機運が高まりました。1988年(昭和63年)から復元事業が始まり、文献調査や発掘調査を経て、1995年(平成7年)3月に三階櫓、大手一ノ門、大手二ノ門が史実に忠実な木造復元で完成しました。復元基金には1億円を超す寄付が集まり、市民の熱意が実を結んだ復元事業となりました。続日本100名城スタンプは三階櫓内に設置されています。
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