110.三春城
散歩記録
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📷 散歩記録準備中1. 三春城の概要
三春城がいつ頃築城されたのかはわからない。史料上はっきりしていることは、永正年間(16世紀初頭)に田村義顕が守山城(現在の福島県郡山市)より三春城に本拠を移したという。田村氏は田村郡全域を支配していた豪族で、系図上は坂上田村麻呂の子孫となっているがその点は疑問符が付く。地元の皆さんから、お城山や舞鶴城として親しまれている三春城は、永正元年(1504)に戦国大名の田村義顕(たむらよしあき)が築いたと伝えられ、平成15年には築城から500年を迎えた。
2. 城の特徴と構造
築城後、義顕が初めて入城した朝、城の上空を鶴が舞うように羽ばたいていたので、「舞鶴城」と呼ぶようになったともいう。周囲の丘陵よりも頭一つ飛び出た急峻な岩山の上に築かれた三春城は、簡単には攻め落とすことができない要害堅固な山城であった。戦国時代の三春城は、山頂部分の本丸に城主居舘を置き、それを中心に郭を配置した典型的な山城でしたが、江戸時代初期の松下長綱による改修により山麓にまで城域が広げられ、さらに秋田氏時代になると、藩主の居舘を山頂の本丸から山麓に移し、名実ともに近世的な平山城へ生まれ変わっている。
3. 歴史的意義
田村氏は義顕の後、田村隆顕、田村清顕と続く。隆顕と清顕の時代、田村郡のある仙道地域(現在の福島県中通り)は、会津黒川城の蘆名氏、小高城の相馬氏、岩城郡の岩城氏、出羽米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏などの周辺各地の有力豪族がその勢力拡大のため進出してきていた。それらの豪族より力の劣る田村氏は、各有力豪族と血縁関係を結び、それら豪族の利害関係を利用して、領地を保つ状況であった。
4. 現在の状況
三春城跡は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。現在は公園として整備され、桜の名所としても知られている。城跡近くには、町役場など公共機関が集まっており、現在も三春町の中枢部である地域である。大正11年(1922年)には三春城跡を公園として整備。登城路は、車も通れるほどに舗装されていて歩きやすい道のりです。本丸跡付近まで車で登ることもできる。
5. 文化的価値
三春城は明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、その後、兵部省の管轄となる。それに伴い、建物や石垣等が取り壊され、民間に払い下げられた。その際、ほとんどの建造物は失われたが、藩校明徳堂の表門が三春小学校の校門として移築され、現存する。三春町民俗資料館には本丸部の模型が展示されている。また三春城VRによる現地体験型VR観光アプリが提供されており、今は失われ、見ることができなくなってしまった史跡を高精細CGVRによって復元している。
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三春町歴史民俗資料館