ざっくり変遷
春日山城の原型がいつ築かれたか、はっきりとした記録はありませんが、南北朝時代にはすでに砦のようなものがあったと言われています。本格的な城として整備されたのは、15世紀後半のこと。越後守護代であった長尾氏が拠点としたのが始まりです。
そして1530年、この城で一人の赤子が産声をあげます。のちの上杉謙信です。彼は父・為景(ためかげ)の跡を継ぎ、わずか19歳で長尾家の当主となります。当時の越後は国内の豪族たちが争う混乱の時代。謙信は、その類まれなる軍才で次々と国内を平定し、春日山城を拠点に越後を統一しました。謙信は、関東管領であった上杉憲政(のりまさ)から「上杉」の姓と関東管領の職を譲り受けます。彼は私利私欲のためではなく、「義」のために戦うことを信条としました。武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」や、北条氏康との戦いなど、数々の激戦を繰り広げますが、その強さの源が、この春日山城だったのです。
城は、標高約180メートルの春日山に築かれ、複雑な地形を活かして無数の曲輪(くるわ:城内の区画)が配置されていました。本丸からは日本海や頸城平野(くびきへいや)が一望でき、敵の動きをいち早く察知できたことでしょう。謙信は、この城に毘沙門天(びしゃもんてん)を祀る「毘沙門堂」を建て、戦の前には必ずここに籠って祈りを捧げたと言われています。しかし、英雄の時代は永遠には続きません。1578年、謙信は春日山城で志半ばにして急死してしまいます。彼の死後、養子であった上杉景勝(かげかつ)と上杉景虎(かげとら)の間で家督を巡る壮絶な争い「御館の乱(おたてのらん)」が勃発。この争いに勝利した景勝が城主となります。
その後、豊臣秀吉の時代になると、景勝は会津へ領地を移されることになりました。代わりに春日山城に入ったのが、堀秀治(ほりひではる)です。しかし、山城である春日山城は、政治や経済の中心としては不便でした。そのため、堀氏は平地に新しい城「福島城」を築き、政治の中心をそちらへ移します。こうして、英雄・上杉謙信と共に戦国の世を駆け抜けた名城・春日山城は、その役目を終え、静かに廃城となったのです。
15世紀後半 越後守護代・長尾氏が本格的に城として整備
1530年 上杉謙信が誕生
1548年 上杉謙信が家督を継ぎ、春日山城主となる
1553年~1564年 武田信玄との間で「川中島の戦い」(全5回)が起こる
1578年 上杉謙信が急死。後継者争い「御館の乱」が勃発
1579年 上杉景勝が勝利し、城主となる
1598年 上杉景勝が会津へ移封。堀秀治が春日山城主となる
1607年 堀氏が福島城を築き、政治の拠点を移したため、春日山城は廃城
訪れた時は日も暮れそうな時間で、なおかつ天気も悪く…。そしてゆっくりできる時間もなく…。まず、向かったのは埋蔵文化財センター。スタンプを手に入れるために向かいました。埋蔵文化財センターでは展示物、謙信公の銅像でテンション爆上がり。そこから春日山城跡へ向かいました。ものがたり館、史跡公園入口付近のみの散策で、今回の春日山城跡来訪は終了。
本丸、二の丸、三の丸、護摩堂、毘沙門堂、直江屋敷…、すべて行けていません(恥)。次の機会には、春日山城をちゃんと語れるよう、満足のいく枚数の写真が掲載できるようにしたいですね。
埋蔵文化財センターへ

まずは100名城スタンプをゲットするために、上越市埋蔵文化財センターを訪れました。謙信公の銅像のお出迎えもあり、テンション上がりました。

➊ まずはお勉強です。

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⓰ ジオラマ。山城であることがわかります。

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⓲ 謙信公

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春日山城跡

埋蔵文化財センターから春日山城跡へ移動しました。春日山城跡ものがたり館にたちより、春日山城史跡広場へと。天気が悪かったのと、到着時間が遅かったこともあり、入り口付近を散歩したのみとなりました。

➊ こちらに駐車させて頂きました

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❹ 史跡公園入口です

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⓬ ものがたり館