ざっくり変遷
高遠城がいつ築かれたのかは、実ははっきりとは分かっておらず、南北朝時代(14世紀頃)に、この地を治めていた高遠氏が拠点としていたお城だと考えられています。しかし、この高遠城の歴史を大きく動かしたのは、武田信玄です。
信玄は信濃国(現在の長野県)を支配するため、高遠城を攻略しました。天文14年(1545年)に落城させると、家臣で軍師でもある山本勘助らに命じて、大規模な改修を命じました。信玄は高遠城を、自国の重要な軍事拠点として生まれ変わらせたのです。この城は、武田氏の親族が城主を務める重要な場所となり、「難攻不落の城」として知られるようになります。
しかし、信玄が亡くなった後、武田家は次第に力を失っていきます。そして天正10年(1582年)、織田信長による「甲州征伐」が始まります。信長は息子の織田信忠に、5万もの大軍を率いさせて高遠城を攻めさせました。この時の城主は、信玄の六男である仁科盛信(にしな もりのぶ)でした。盛信はわずか3,000人ほどの兵力で、5万の大軍を相手に激しく抵抗します。城は壊滅的な被害を受け城主盛信も討ち死にしましたが、盛信と兵士たちの勇敢な戦いは、後世まで語り継がれることになります。
高遠城はその後、豊臣秀吉、徳川家康の支配を経て、江戸時代には高遠藩の藩庁となります。鳥居氏や内藤氏が城主を務め、約180年にわたってこの地を治めました。そして明治時代を迎え、明治政府の廃城令によって、高遠城はその役割を終え、城内の建物はすべて取り壊されてしまいました。
その後、城の姿が失われ荒れ果てた姿を悲しんだ旧藩士たちが、城下から「コヒガンザクラ」を移植したのが、現在の「天下第一の桜」へとつながる高遠城址公園の始まりとなっています。
14世紀頃 高遠氏が居城として築城
1545年 武田信玄が高遠城を攻略し、大規模改修を開始
1582年 織田信忠の大軍による「高遠城の戦い」で落城。城主・仁科盛信が討ち死に
江戸時代初期 大改修が行われ、高遠藩の藩庁となる
1636年 鳥居忠春が藩主となる
1691年 内藤清枚が藩主となり、以降内藤氏が明治維新まで治める
1871年 廃藩置県により高遠県が廃止され、高遠城は廃城に
1876年 旧藩士たちの手によって、城跡の公園化と桜の移植が始まる
1973年 国の史跡に指定される
木々が生い茂り、木陰を作ってくれていました。ただ、蚊がすごくて散歩の間かなりの数、被弾しました(笑)。高遠町歴史博物館で御城印とスタンプを手に入れ、高遠城跡に向かいましたが観光客もいなくて閑散としていました。天守閣等の建造物はありませんが、歩きやすく整備されていましたので、散歩には好都合。日陰をたどりながら歩かせていただきました。
高遠町歴史博物館まわり

こちらで、御城印とスタンプを手に入れました。入城して、展示物を見させていただき、車で移動し高遠城跡に向かいました。

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❸ 入口。スタンプはこちらです

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➒ 駐車場の奥にダムがありました

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高遠城址公園

どこからどこまでが公園かよくわかりませんでしたが、駐車場に車を停め散歩させていただきました。チケット購入ゲートらしきものがありましたが、半ば朽ち果てており、今は無料で入っても大丈夫だろうの判断で、ゲートを通らせていただきました。

➊ 二の丸跡

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❻ 桜雲橋

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➒ 問屋門

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⓯ 新城神社

⓰ 新城神社

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⓳ 太鼓櫓

⓴ 太鼓櫓

㉑ 太鼓櫓

㉒ 太鼓櫓

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城址公園まわり

➊ ゲートは稼働していませんでいた

➋ 勘助曲輪

❸ 高遠城大手門

❹ 高遠城大手門

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➓ この先が城址公園です

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