開戦地から島津陣跡にアプローチ
開戦地からアプローチしています。開戦地から島津陣跡は目と鼻の先、歩いても5分もかかりません。
開戦地から北へ歩いています。赤矢印は笹尾山の石田三成陣跡。肉眼でもはっきりと見える距離感です。
そして黄色矢印方向に島津陣跡です。
開戦地から北へ3分くらい歩いて、右折したところです。島津陣跡が目の前です。
というか、開戦地から北へ歩き始めたところで目に飛び込んで来ていました(笑)
到着!開戦地からゆるりと歩いても5分ほどで到着です。
間違いなく、開戦時にはその攻防が見えていたと思います。なんなら、参戦するにもゆっくり始動しても5分で到着するし…。歩いてみて思うのですが、この距離感で開戦しても動かなかった島津義弘のその時の気持ちを聞いてみたい。
島津陣跡
大好きな看板。関ケ原のいたるところに設置してくれています。
いつも立ち止まって読みふけっています。そして周りに人がいないときは、もちろん音声ガイド!
略地図を見ながら、ガイドを聞くのは至福の時(笑)
この石碑には「笹尾山石田三成陣地…」とあります。
石碑やのぼりなどがあり、雰囲気あります。木で囲まれた静かで、ひんやりとした感じも歴史の重みを演出してくれています。
開戦後、三成に直接説得されても動かなかった義弘。西軍が総崩れになり周りを東軍に囲まれていくのをどんな想いで見ていたのだろうか。「島津の退き口」と言われる壮絶な退却を決心したのはどんな想いだったのだろうか。
兵1500での参戦ではなく、兵5000での参戦であれば島津軍だけでも大きく戦局を変えられたのではなかったのか想像してしまいます。
島津義弘陣跡石碑。
島津豊久、長寿院盛淳、山田有栄…。もっとスポット当たって有名になってくれると良いのですが。義弘の陣羽織を羽織り、身代わりになって従士18名と討死した盛淳なんてかっこ良過ぎでしょ。「我こそは義弘なり」って言ったのか言わなかったのかはわかりませんが、義弘を逃がすために取った行動は現代では通用しない考え方ではありますが胸にきます。
いつか、「島津の退き口」を歩くか自転車かでたどってみたいですね。